温暖化時計
『子供は死んではいけない。』と、藤晴美は考えていた。
世界では栄養失調で死んで行く子供が多いのに、日本は世界中から食べ物を輸入し、飽食で捨てている。
彼女は、チャリティ活動や、黒い羽根募金を通して、東南アジアの子供たちを救済したことで知られている。
政権交代後、内閣府の研究員を外れてから、彼女が私立大学の客員教授になった頃のことだ。
シンクタンク時代、藤晴美は、『京都議定書の基準年1990年は不公平だ。』という論理を展開して、注目を集めていた。
1990年比はEUとロシアに有利で、日米には不利だと主張した。
理由として、ドイツの東西統合、イギリスの(エネルギー自由化で)石炭火力から天然ガスへ転換、ソ連崩壊での経済疲弊を挙げている。
方や、アメリカは景気低迷からの脱出期、日本はすでに世界トップの省エネ大国だと、主張した。
値下がりした石炭輸入を増加させていた日本と、『マイナス6%は既存の技術では削減不可能だ。』という彼女の主張は方向性が合致した。
そして、彼女は内閣府の研究員に抜擢されてた。
こうして、女性的表現の『乾いた雑巾』論が生まれ、旧政権末期にアメリカに追従した基準年2005年比が作られて行った。
しかし、これは双方にとって大きな誤解の始まりでもあった。
2009年のCOP15で、日本は1990年比で30%のCO2削減の中期目標を受け入れた。
2008年の洞爺湖サミットでホスト国として約束した長期目標を実現させるためだった。
産業界は、政府に従う姿勢を示しながら、省エネ技術移転を名目に、生産拠点の東南アジア移転を加速させた。
晴美は、東南アジアの農場で奴隷として働かされている子供たちの救済目的で、アマツバメの養殖ビジネスを始めていた。
ここへの投資を通して、工場の海外移転は進められた。
CO2排出工場の受け入れは困難だったからだ。
橋渡しをしたのは、地下潜伏中の元通産省官僚だった。
ハルミが誕生するまで、後1年だった。
世界では栄養失調で死んで行く子供が多いのに、日本は世界中から食べ物を輸入し、飽食で捨てている。
彼女は、チャリティ活動や、黒い羽根募金を通して、東南アジアの子供たちを救済したことで知られている。
政権交代後、内閣府の研究員を外れてから、彼女が私立大学の客員教授になった頃のことだ。
シンクタンク時代、藤晴美は、『京都議定書の基準年1990年は不公平だ。』という論理を展開して、注目を集めていた。
1990年比はEUとロシアに有利で、日米には不利だと主張した。
理由として、ドイツの東西統合、イギリスの(エネルギー自由化で)石炭火力から天然ガスへ転換、ソ連崩壊での経済疲弊を挙げている。
方や、アメリカは景気低迷からの脱出期、日本はすでに世界トップの省エネ大国だと、主張した。
値下がりした石炭輸入を増加させていた日本と、『マイナス6%は既存の技術では削減不可能だ。』という彼女の主張は方向性が合致した。
そして、彼女は内閣府の研究員に抜擢されてた。
こうして、女性的表現の『乾いた雑巾』論が生まれ、旧政権末期にアメリカに追従した基準年2005年比が作られて行った。
しかし、これは双方にとって大きな誤解の始まりでもあった。
2009年のCOP15で、日本は1990年比で30%のCO2削減の中期目標を受け入れた。
2008年の洞爺湖サミットでホスト国として約束した長期目標を実現させるためだった。
産業界は、政府に従う姿勢を示しながら、省エネ技術移転を名目に、生産拠点の東南アジア移転を加速させた。
晴美は、東南アジアの農場で奴隷として働かされている子供たちの救済目的で、アマツバメの養殖ビジネスを始めていた。
ここへの投資を通して、工場の海外移転は進められた。
CO2排出工場の受け入れは困難だったからだ。
橋渡しをしたのは、地下潜伏中の元通産省官僚だった。
ハルミが誕生するまで、後1年だった。
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グリーンワーク
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